イースター島にゆかりのある歴史上の人物や、現代の著名人を紹介します。
| エドワード・デイヴィス | イギリスの海賊。イースター島を最初に発見した人物かもしれません。 |
| ホツ・マトゥア王 | ホツ・マトゥア王は、千年前にラパ・ヌイに入植した人物です。 |
| ドン・フェリペ・ゴンサレス | イースター島を訪れた2番目のヨーロッパの探検隊の隊長です。1770年に島を訪れました。 |
| ウジェーヌ・エロー | ウジェーヌは、ラパ・ヌイの人々とともに暮らした最初の外国人で、1864年に9か月間を島で過ごしました。 |
| ヤーコプ・ロッヘフェーン | ラパ・ヌイに初めて足を踏み入れたヨーロッパ人。復活祭の日曜日に到着し、島を「イースター島」と名づけました。 |
| ジェームズ・クック | イギリスのジェームズ・クックは、1774年に島を訪れた3番目のヨーロッパの探検隊を率いました。 |
| トール・ヘイエルダール | ノルウェーの探検家・冒険家で、1955年と1986年にラパ・ヌイを訪れました。ポリネシアには東から人が移り住んだという、誤った自説を証明しようとしていました。 |
| ロバート&ナンシー・ウェバー | ラパ・ヌイ語の完全な正書法を作り上げたアメリカの言語学者。 |
| ウィリアム・マロイ | イースター島の数多くの遺跡を修復したアメリカの考古学者。 |
ドン・フェリペ・ゴンサレス
スペインの航海者ドン・フェリペ・ゴンサレスは、1770年にラパ・ヌイに到着した船サン・ロレンソ号とフリゲート艦サンタ・ロサリア号を指揮していました。ヨーロッパ人が島を訪れたのは、これが2度目でした。
彼はスペイン国王サン・カルロスの名のもとに島を併合しました。古い地図の中には、この島がIsla de San Carlos(サン・カルロス島)と記されているものがいくつもあります。
詳しくはドン・フェリペ・ゴンサレスのイースター島航海の航海日誌をご覧ください。
エドワード・デイヴィス
エドワード・デイヴィス(またはデイヴィッド)船長はイギリスのバッカニア、つまり海賊で、ラパ・ヌイを最初に発見した人物かもしれません。1687年、彼の乗組員たちはバチェラーズ・ディライト号から島を目撃しましたが、上陸はしませんでした。デイヴィス船長と、航海を記録したライオネル・ウェーファーは、低い砂の島について語っています。ラパ・ヌイには砂地はほとんどありませんが、遠くから見ると、夏の枯れ草のせいで島が砂地のように見えることがあります。
ラパ・ヌイに上陸した最初と2番目のヨーロッパの航海者(ヤーコプ・ロッヘフェーンとドン・フェリペ・ゴンサレス)は、どちらもエドワード・デイヴィスの示した針路を頼りにラパ・ヌイを見つけました。そのことは彼らの航海日誌から読み取れます。二人とも島をデイヴィッド・ランド/デイヴィス・ランド、あるいはデイヴィッド島/デイヴィス島と呼んでいました。3番目の来訪者であるジェームズ・クック船長は、島をイースター島ともデイヴィス・ランドとも呼んでいます。
ウジェーヌ・エロー

ウジェーヌ・エローは、ラパ・ヌイの人々とともに暮らした最初の外国人です。1820年にフランス(サン=ボネ)で生まれました。9歳のときに父を亡くし、母は大変な苦労をして6人の子どもを育てなければなりませんでした。ウジェーヌは長兄のもとで機械工と錠前師の仕事を覚えました。その後、あるアルゼンチン人と出会い、その人の会社で働かないかと誘われます。彼は母に別れを告げ、家族を助けるお金を持ってすぐに戻ると約束しました。
1848年にブエノスアイレスに着いてみると、そのような仕事はなく、チリへ渡れるようになるまで、ホテルの給仕として働いて生計を立てなければなりませんでした。コピアポでは修理工場を開き、信頼できる誠実な人柄からすぐに顧客がつき、経済的にも大いに成功しました。1854年、フランス語を話す二人の司祭と出会った彼は、二人を自宅に招き、ポリネシアに伝道団があることを聞きます。こうして彼は、この伝道に力を尽くすよう神に召されていると感じたのです。彼は工場を売り払い、聖職者としての訓練を受けるためにバルパライソへ向かいました。しかし、フランスの家族が深刻な経済的困難に陥っていることを知っていたため、家族を助けるという約束を果たしにフランスへ渡らなければなりませんでした。8年後(1862年)、家族の経済的な問題を解決したウジェーヌ・エローはバルパライソに戻ります。そこで彼は、奴隷商人とその船がイースター島で働いていた悪行を知りました。このとき彼は、不幸な島民たちを助けようと心の底から決意したのです。彼は修練期の1年を中断して、島民の実情をみずから確かめる許可を得ました。1863年、彼はタヒチへ向けて船出しました。
1864年1月2日にイースター島に到着し、9か月間滞在しました。彼はラパ・ヌイでの出来事をつづった長い手紙を書いています。
バルパライソに戻ると、彼は修練を続け、修道誓願を立てました。1865年にタヒチへ向けて船出し、1866年3月23日、イポリット・ルセル神父とともに再びイースター島に到着します。2年をかけて働き、ようやく伝道所の建物がわずかに形になりました。最初の9か月の滞在中に味わった苦難のため、弱った体はもう回復しませんでした。島民全員が洗礼を受けたことを喜びながら、1868年8月19日に結核で亡くなりました。
ホツ・マトゥア
ホツ・マトゥアはイースター島の最初の王で、約千年前に生きていました。
伝説によれば、彼らの故郷であるヒバの島で何らかの混乱が起きたといいます。ホツ・マトゥアの大神官ハウ・マカが眠りの中で、人の手の触れていない土地の幻を見たため、ホツ・マトゥアは民とともにそこへ移住することを決めました。
ラパ・ヌイに着いた王はアナケナに上陸しました。そのため、この湾はハンガ・ラウ・オ・テ・アリキ、つまり王の湾
とも呼ばれています。
ヤーコプ・ロッヘフェーン
ヤーコプ・ロッヘフェーンは、1722年にイースター島を訪れた最初のヨーロッパ人です。復活祭の日曜日に島に到着したことから、島をイースター島と呼ぶことにしました。
1722年のイースター島訪問について詳しくは、ヤーコプ・ロッヘフェーンの航海日誌をご覧ください。
ジェームズ・クック

ジェームズ・クック船長は、ラパ・ヌイに上陸した3番目のヨーロッパの航海を率いました。一行は1774年、レゾリューション号とアドベンチャー号の2隻で到着しました。
1774年のラパ・ヌイへの航海について詳しくは、ジェームズ・クックの航海日誌をご覧ください。
ロバート&ナンシー・ウェバー
このアメリカ人言語学者の二人は1980年代からイースター島に暮らし、ラパ・ヌイの共同体と文化のために膨大な仕事を成し遂げてきました。その一部を紹介します。
- ラパ・ヌイ語を書き表すための正書法の標準を作成。
- ラパ・ヌイ語を学ぶための全6巻の教科書シリーズを作成。
- 聖書のラパ・ヌイ語への翻訳。1990年代に始まったこのプロジェクトは、現在最終段階にあります。

映画『ルカ』のラパ・ヌイ語吹き替え
ルカによる福音書を翻訳し終えたロバートとナンシー・ウェバーは、映画『ルカ』をラパ・ヌイ語に吹き替えることを思いつきました。1970年代のこの名作は、ルカによる福音書にほぼ一節ごとに忠実に沿っているからです。目的は、ラパ・ヌイ語の再活性化を後押しすることでした。この言語がこうしたプロジェクトをやり遂げられるほど豊かであることを示し、ラパ・ヌイの人々が自分たちの言葉に磨きをかける励みになればという願いがありました。また、ラパ・ヌイの人々に聖書のメッセージを自分たちの言葉で聞いてもらいたいという、信仰上の理由もありました。

2009年10月、ナンシーとロバートは、上映時間が4時間20分にも及ぶこの映画の台本の翻訳に取りかかりました。半年後、少数民族の言語への映画の吹き替えを専門とする技術者、ピーターとジェイミー・テレルが、メキシコの団体Piedras Vivasからやって来ました。ラパ・ヌイ語での吹き替えにかかる費用を知っていた二人は、無給のボランティアとして働きました。

作業はすべて無報酬でした。出ていくお金ばかりでしたよ
と、ナンシーは笑いながら語ります。完成版のDVDは、ディスクの複製費用だけの値段で地元で販売されました。
トール・ヘイエルダール

トール・ヘイエルダールはノルウェーの探検家で、特に1955〜1956年と1986年のイースター島探検で知られています。ラパ・ヌイへの最初の探検について書いた著書『アク・アク』は、非常に多くの読者を得ました。当時この島はほとんど知られていなかったため、この本によって多くの人がこの島の存在を知ることになったのです。どちらの探検でも、彼とチームはアナケナの浜にキャンプを張りました。ここはラパ・ヌイの最初の王ホツ・マトゥアが千年前に上陸した場所です。そこで彼は、イースター島の謎のいくつかを解く重要な手がかりの多くはアナケナで見つかるはずだと考えたのです。
倒れたモアイ像の修復作業を始めたのはトール・ヘイエルダールで、1956年にアナケナのアフ・アトゥレ・フケの像を立て直しました。1986年には、モアイの運搬実験を初めて行った人物でもあります。彼は揺らして歩かせる説を支持していました。
トール・ヘイエルダールの「東からの移住」説
コン・ティキ号の航海
このノルウェーの探検家は、ポリネシアの島々へ何度も探検に出かけました。その主な目的は、ポリネシアには西(東南アジア)からではなく、東(現在のラテンアメリカ)から人が移り住んだという自説の証拠を探すことでした。彼の説によれば、入植者たちはラテンアメリカ大陸から太平洋へ出るのにフンボルト海流を利用したといいます。南極付近から始まり、ラテンアメリカ大陸の西岸に沿って北上し、ペルーを過ぎたあたりで太平洋へと向きを変える海流です。そのような航海が可能であることを科学界に証明するため、彼はいかだを造り、勇敢な冒険家たちとともに、ペルーから恐れることなく太平洋へと漕ぎ出しました。現代の船の伴走はなかったため、万一の事態が起きても運を天に任せるしかありませんでした。数か月の航海の末、いかだはフランス領ポリネシアの岩礁に乗り上げて粉々になりましたが、一行は見事に目的を果たしました。この航海は撮影され、1950年にいかだと同じ『コン・ティキ』という名の記録映画として公開され、高い評価を受けました。
ポリネシアとラテンアメリカの接触を示す証拠
ラテンアメリカ大陸とポリネシアの間には、いくつかのつながりがあります。ポリネシア全域に見られるサツマイモは、アジアではなくラテンアメリカ原産の植物です。ラパ・ヌイ語でサツマイモはクマラといい、インカ帝国で話されていたペルーの先住民の言語ケチュア語とまったく同じです。
もうひとつのつながりは、ラパ・ヌイで見つかった鶏の骨です。そのDNAは、うっすらと青みがかった卵を産むチリ南部の鶏の骨と完全に一致しています。
インカ風の偽の像をつかまされる
イースター島滞在中、トール・ヘイエルダールは、古代ラパ・ヌイ文化と、同時代のラテンアメリカ最大の文明であるインカ帝国とのつながりを探し続けました。彼はインカ美術の画像をラパ・ヌイの人々に見せ、似たものを見たことがないか尋ねました。トール・ヘイエルダールがそうした像を手に入れるためなら何でも差し出すと見て取った一部のラパ・ヌイの人々は、似たものを見たことがあると言いました。そして家に帰ると、画像で見たとおりの像を彫り、古く見せるために数日間地中に埋めておくのです。その像を洞窟に置き、ヘイエルダールをそこへ案内して売りつけました。トール・ヘイエルダールは、こうした像を自説の論拠として発表したのです。
明らかな東南アジア起源
ラパ・ヌイの人々をはじめ、すべてのポリネシア人の言語、習慣、身体的特徴は、容易に東南アジアまでさかのぼることができます。ラテンアメリカの先住民とポリネシア人の間には類似点がほとんどなく、実際にはポリネシアには西から人が移り住んだことがわかります。
結論
トール・ヘイエルダールは、その礼儀正しさから島民に、その勇気と歴史的な重要性から科学者たちに尊敬されていましたが、ポリネシアにはラテンアメリカから人が移り住んだという説は誤りでした。ポリネシアにサツマイモやチリの鶏の骨が存在することは、何よりも、古代ポリネシアの人々の驚くべき航海技術の証なのです。
ウィリアム・マロイ

ウィリアム・マロイは、ラパ・ヌイの遺跡の修復に大きな情熱を注いだアメリカの考古学者です。彼が修復した遺跡は以下のとおりです。
| 遺跡 | 年 |
|---|---|
| アフ・アキビ | 1960 |
| オロンゴ | 1974年と1976年 |
| タハイ | 1968 |
| アフ・フリ・ア・ウレンガ | 1972 |
